080 Episode MS 09 - 芍薬牡丹百合の花が萎れる
目を疑った。
一瞬意識が遠のくような感覚に捉われた。
真白と共に訪れた久しぶりの嘉稜寺。
私は少しウキウキしていた。
少し特殊な再訪。
昔あれだけ頻繁に出入りしていた場所。
夫の実家。
しかし、今は義父はもういない。
今、寺をやりくりしているのは、色々あって夫だ。
隣の若くてみずみずしい少女が一瞬羨ましくなる。
彼女はまだこれから先が長い。
私のように問題だらけでもなければ、どこにでも羽ばたいていける自由もある。
それでも私は幸せだ。
こうしてまた戻ってくることができた。
半ば諦めていた人生だったけれど、もう一度ごく普通の暮らしに戻る機会を得たのかもしれない。
そう思った矢先である。
目がロクに見えない夫は、当然私に気付くはずもなく、居間に通される。
なにやら撮影が行われているということで、大所帯がいるようなのだけれど、今は大半が買い出しに出ているそうだ。
残っていた住職である夫、撮影している雑誌の編集長、そのアシスタントに挨拶をしておく流れ。
私に気づかない夫を微笑ましく見つめた後、通された居間にいた二人を見た時に異変が起きた。
編集長とアシスタント?
どちらも何かがおかしい。
どちらも私の知っている人間だ、という感覚が強くあった。
激しい喜びのような正の感情と、憎悪・恐怖のような負の感情がぶつかり合うが如く、私は動揺した。
恰幅の良い中年の男性、編集長と紹介された人間の表情にも複雑な変化があった。
おそらく私と彼の記憶のシンクロがほぼ同時にあった。
ようやく、完全に忘れることはできないまでも彼方に遠ざけていた記憶が呼び戻されたような。
なんとなく見たことがある顔、どこかで見たこととがある顔、それが何なのか、幸か不幸かわかってしまった。
藤重を殺害した田村。
その田村を殺害した謎の人物。
その謎の人物の顔だ。
私がずっと思い出しては苦しんでいた、まさにその顔。
目の前が暗転するような感覚すら覚えた。
そして、彼も私に気づいた。
あの事件の時、この男は私に気付いていた。
私の方を見て笑った。
その不気味な微笑みが私を長いこと苦しめていたのだ。
だから、この男も私のことを知っている。
同じように曖昧な記憶から私があの時、殺害現場を目撃した女だと気付いたのだろう。
その直後、悲劇が起きた。
ぎこちない挨拶を男と真白が交わし、男が立ち上がり真白に近づいてきた。
握手を求めるように差し出した手が、私には血塗られているように見えた。
真白さん、その手を握ってはダメ。
しかし、その言葉は喉から先に出てこない。
うぐ、という苦しそうな音がおそらく私にだけ聞こえた。
麗しく差し出された真白の手を握った瞬間、男はその手を強く引き、もう片方の左腕を真白の首に巻きつけた。
強く首を絞められた真白は抵抗もできずに気を失った。
真白は左腕を離されてその場に崩れ落ち、すぐ後ろにいたアシスタントと思しき若い女性も、殺人犯の体型からは想像もつかない身のこなしで飛びつかれて首を絞められた。
目の前で展開された悪夢に、私はどうすることもできない。
ようやくここまで辿り着いたのが精一杯だった私の身体では、抵抗しても無駄だ。
夫、秀川は目がまともに見えないので、異変を感じたとしても、この状況を打破することはできない。
私はやはり普通の暮らしなど望んではいけなかったのだ。
愛する夫と娘の幸せだけを考えて、病院でおとなしくしておくべきだった。
今更そんなことを考えても遅い。
涙が滲むも、流れる前に、私も首を絞められて意識を失っていった。
後悔の念と申し訳なさしかない。